自宅で昆虫を飼うのはアブノーマルな趣味である【2019年を振り返って】
この記事では、2019年を振り返った所感について記事にさせて頂きます。
- 趣味とは元来孤独である
- そもそも“趣味”は人の理解を得る必要があるのか
- 配偶者の真の理解はどこまでいっても得られない
- 趣味は所詮自分のためのものであって、子どものためのものではない
- 周りには感謝しなければならない
- 人生における“余計なこと”の重要性
- 深謝
- 最後に
趣味とは元来孤独である
自宅で昆虫を飼う(ブリードする)のはアブノーマルな趣味である。
そもそも、元来趣味とは孤独である。
たとえそれが大切な仲間を伴う趣味であったとしても、その趣味を取り巻く環境は個人により千差万別であり、本質的にはやはり孤独なのである。
だからこそ、趣味を通じて得ることのできた仲間というのは、他では到底得難い存在であると言えよう。
しかし、そこにきて『生き物飼育』という趣味である。
とりわけ『昆虫飼育』となれば、一層理解を得難い。
2019年はそのことを改めて痛感した年であった。
そもそも“趣味”は人の理解を得る必要があるのか
そもそもそれほど孤独である“趣味”を楽しむのに、人の理解を得る必要はあるのか。
当然、ある趣味に没頭するのは良い。
誰の理解も得られずとも、むしろ邁進すべきである。
しかし、それは健全な生活の上に成り立っていなければならない。
趣味はどこまでも趣味であり、生業ではない。
平穏な生活あっての趣味であり、これを脅かすようでは、やはり趣味として不適当であると言わざるを得ない。
そういった意味では、やはりその趣味に対する理解は必要であると言わざるを得ないのである。
配偶者の真の理解はどこまでいっても得られない
かつて私は、私自身が考える、配偶者から理解を得るために考え得る5項目について記事にさせて頂いた。
これは単に私の思うところを記述しているので、所詮は私自身の思想の言語化に過ぎない。
しかしこの記事自体は私が妻から昆虫飼育を咎められて間もなく、言わば熱い内に作成している記事であるので、今読み返してみると自分でも“なるほど、そういう面もあるな”と膝を打ちたくなる部分もある。
しかし今回、この5項目に反することになるかもしれないが1点だけ申し上げると、“配偶者の真の理解はどこまでいっても得られない”ということである。
配偶者から理解を得られない要因は種々ある。
環境的な要因、金銭的な要因、生理的な要因など様々である。
しかし仮にそれらを全てクリアしたとしても(あるいはそれらの要因が取るに足らない程度だったとしても)、真に理解を得られることはないのである。
なぜならそういった現実的な問題とは別に、心情的な、内心の問題が存在しているからだ。
お互い忙しい生活の中で、限られた時間を自分のためだけに割くという行為そのものが、心情的に許容し難いのである。
要は、「そんなことに割く時間があるのだったら、家事(育児)の1つでもしてよ」という具合である。
もっともである。
しかし、これは平素どの程度家事や育児(あるいは収入を得ること)に貢献しているかという問題ではない。
そういう事実関係に基づいたものではない。
理屈ではないのだ。
趣味は所詮自分のためのものであって、子どものためのものではない
もう1つ、認識を改めなくてはならない、いや、誰しも気付きながらその趣味を行うことのエクスキューズにしているのが、「この趣味は子どものため」「子どもにとっても良いこと」という認識である。
昆虫飼育(採集)は子どもの教育上良い。
これを否定するつもりは毛頭なく、間違いなく好影響が期待できると断言できる。
生命を感じ、自然のことを考え、神秘を知る。
実に尊い趣味である。
また、私は他に『登山』というとりわけ浅い趣味も有しているが、例えばこういった趣味も子どもに好影響があること請け合いである。
そして、私自身も将来的には絶対に子どもと一緒に3,000m級の山々を登りたいと思っているし、是非登山を生涯を通じた趣味にして欲しいと考えている。
このように、私はいくつかの趣味を「子どものためにも」、あるいは「子どもにも興味を持ってほしい」と考えて行っている。
しかしここで勘違いをしてはいけない。
そのことに継続的に興味を持つか、そのことから何かを得るか、何か価値を見出すかということは、我々が考えたり押し付けたりするものではない。
子どもたち自身が感じ、考え、その上で子どもたちが決めることなのである。
そのきっかけを与えるのは素晴らしいことであるし、そういう親でありたいと心底思う。
子どもと共に趣味を楽しまれている方を本当に尊敬し羨ましく思う。
ただし、趣味というのは(あくまで第一次的には)所詮自分のために行っているものであり、子どもをそのエクスキューズに使ってはいけないのである。
周りには感謝しなければならない
いささか不適切な表現をお許し頂くと、私は「酒」も「女」も「ギャンブル」もやらない。
全くもって至らない父親であるが(時に自分でも嫌になる程だ)、責任ある仕事を毎日こなしている。
だから、せめて、細々とやっている趣味くらい好きにやらせてくれというのが本音である。
夜な夜な人目に着かぬよう、ひっそりと自身の趣味を信仰する様は、さながら幕末の隠れキリシタンである。
しかしながら、考えようによってはほんの少しでも自分の趣味を実行できているからには、周りの人には多かれ少なかれ趣味を許容してもらっているものと言えよう。
結局これについては感謝すべきことであり、感謝するほかないのだ。
配偶者など、周りの人から「小言を言われる」、「嫌味を言われる」、「拒絶される」などのことがあったとしても、多かれ少なかれ趣味を楽しめているなら、感謝すべきなのだ。
そして、私は昆虫を好きで飼育している身であるから、誤解を恐れず敢えて言うが、とりわけ昆虫を自宅で飼育(ブリード)するというのはアブノーマルな趣味である。
社会通念上、多くの人は受け入れ難い。
例えば、私は『マラソン』や『サイクリング』もごく浅い趣味として有している。
マラソンやサイクリングを「生理的に受け付けない」という人は少ないと思うが、昆虫飼育の場合はそのおそれが十分あることは言うまでもない。
また、昆虫飼育のみならず、通常歓迎されない趣味は多く存在する。
その趣味が周りの人から多かれ少なかれ許容されているなら、感謝の念無くしてこれを行うことはできないのである。
人生における“余計なこと”の重要性
では、そもそも“趣味”など持たねばそのような諸問題について思慮しなくて済むのではないか。
はっきり言って趣味は『余計なこと』なのではないか。
ある意味ではそれは正しいと言えるのかもしれない。
認めざるを得ないのかもしれない。
しかし、人生を豊かにするためには、その余計なことが極めて重要であると考える。
趣味を通じて得られることは、その趣味に限定されたことだけではない。
例えば昆虫飼育を趣味とすれば、昆虫の知識だけでなく、生命の営み、遺伝、生育環境(自然)のことなど、趣味の対象を取り巻く広い分野について学ぶことになる。
そうすると普段の生活から視点が変わり、様々なことに気付きが生まれるのである。
例えばマラソンを趣味とすれば、身体の仕組みについて考えることになる。
「長い距離を走ったら腹が減る」という当たり前のことも、自分自身で走ってみないことには体感できないのである。
そして、いずれの趣味においても極めて重要なことは、『その趣味を通じて仲間ができる』ということである。
気の合う仲間がいない人生ほど寂しいものはない。
仕事をして家に帰って寝るだけの人生では、これらは得られないのである。
深謝
2019年は、趣味を有しているからこそ、良いことも悪いことも色々と思慮せざるを得ない1年であった。
しかし、悪い面も、寂しい人生を送るよりは幾分も“マシ”である。
一方、言うまでもなく得られたものも大きく、特に身に余るご配慮を賜った方々にはこの場をお借りして深謝申し上げたい。
最後に
今回記事は趣向を変えて作成させて頂きましたが、ほんの気紛れにすぎませんのでどうかご容赦ください。
万が一お気に障る部分でもございましたら、大変申し訳ございませんでした。
ご了承頂ければ幸いです。
当ブログをお読みくださる奇特な皆様方には、2019年中は大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。
個人的には(皆様方から見れば些細なことと思いますが)色々あった年でしたが、お陰様で先述のとおり得るものも多くございました。
2020年も、落とし所を見極めまして、自分なりの楽しみ方をできればと思います。
2020年もどうかよろしくお願い申し上げます。
当ブログをお読みくださる奇特な皆様方には、よいお年をお迎えください。
※内容はあくまでJBの主観になりますのでご了承いただければ幸いです。